■文京遺跡

【城北キャンパス】城北キャンパス 城北キャンパスに広がる文京遺跡では、弥生時代中頃(1世紀)と、古墳時代の集落、古代~中世にかけての水田跡などが見つかっています。とくに、弥生時代には大量の土器や石器に加えて、中国製の青銅鏡破片、鉄製の斧や鏃、石製の指輪などの遺物が出土し、土器やガラス装身具などが作られていたことがわかっています。また、法文学部本館西側付近では、東西8.5~9m×南北9.5m以上、柱直径40㎝の超大型建物群が発見されました。この超大型建物は『魏志倭人伝』に記載された「宮室」にあたるもので、周辺には、100軒をこす住居跡や、貯蔵用の穴蔵、高床式の倉庫が幾重にも重なり合った状態で見つかっています。こうした弥生時代の文京遺跡は、「弥生都市」とも呼べる大集落であり、全国でも例をみない、貴重な遺跡として注目されています。

【文京遺跡の歴史】
今から60年ほど前まで、城北キャンパス周辺は陸軍の練兵場でしたが、戦争が終わり、練兵場は小・中・高校や大学が集まる文教地区となりました。愛媛大学教育学部の前身である愛媛師範学校でも、昭和22年(1947)、現在の城北キャンパスに附属小学校を建てることになり、その工事中、弥生時代の土器や石庖丁が採集されました。これが文京遺跡の発見となりました。
その後も、工事で土器などが出土することが多く、昭和27年(1952)の愛媛新聞には、文京遺跡の遺物を蒐集する附属小学校郷土研究クラブの活動が紹介されています。また、昭和37年(1962)には、城北キャンパス南部の工学部本館建設工事中に、弥生時代の遺物が大量に出土しました。これを、文理学部歴史学の助教授であった西田栄先生が考古学界に紹介され、文京遺跡は愛媛県の代表的な弥生時代遺跡として全国に知られるようになりました。
ところが、当時は、どのような性格や内容をもつ遺跡なのかは、よくわかっていませんでした。これをつきとめたのは、昭和50年(1975)の文京遺跡1次調査です。調査地点は、キャンパス南西角の工学部2号館の西端部分で、竪穴式住居跡などが発見され、弥生時代の集落遺跡であることが初めて明らかになりました。その後も、大学の施設を充実させるために建物が建てられるたびに、松山市教育委員会や法文学部考古学研究室が発掘調査を行い、昭和62年(1987)以降は大学敷地内の発掘を行うために設立された埋蔵文化財調査室が調査を続けています。(『文京遺跡シンポジウム-弥生大集落の解明-』より)

■これまでの調査内容一覧

文京遺跡1次

文京遺跡2次

文京遺跡3次

文京遺跡4次

文京遺跡5次

文京遺跡7次

文京遺跡8次

文京遺跡9次

文京遺跡10次

文京遺跡11次

文京遺跡12次

文京遺跡13次

文京遺跡14次

文京遺跡15次

文京遺跡16次

文京遺跡17次

文京遺跡18次

文京遺跡19次

文京遺跡20次

文京遺跡21次

文京遺跡23次

文京遺跡24次

文京遺跡25次

文京遺跡26次

文京遺跡27次